Ranald Mack Donald.Picture taken J uly 5.1891
ワシントン州のハイウェイ地図に"MackDonaldの墓"がのっています。ケテルリヴァー沿いの丘にそれはあります。コロンビアーナキャンプは毎年その墓を訪れています。そしてケテルリヴァーで橋から飛び込んで遊ぶのです。
MackDonaldってどんな人?
MackDonaldは、1824年2月3日に生まれました。平和で落ち着いたなかに丘がそびえ、ケテルリヴァーがみおろせる所に彼の墓がたっています。彼は、人々に尊敬された一生を送ったそうです。石の下に眠っている彼は、探検家のスコットラントン人の父とチヌーク族のインディアンの母の間に生まれました。彼の貪欲な好奇心と探検家の精神は、先祖からの血を受けついたのです。そしてその血は、彼を将来日本へ向かわせたのです。
彼のその大きな夢は、今日、ロケットにのって月へ旅をするようなものだと歴史家のHerbert H.Gowganは、言っています。彼の財産をすて、両親と慈善家によって育まれた彼の血に流れる精神をより大事にしたのです。24才で密航を決意した(その当時日本は鎖国時代)尋常でない行動は、彼の人生の記念すべき事だけでなく日本とアメリカをつないだ歴史的なことなのです。そして後には、西洋世界にもその関係に影響を与えました。
父であるArchibald Mackdonaldはスコットランドから新世界をめざしてアメリカにわたりました。彼は、ハドソンベイカンパニーの探検家になり仕事の一つにコロンビアリヴァーから北上した地域の地図を作りました。彼は、チヌーク族のプリンセスとオレゴンで素晴しい結婚式をあげました。その結婚式は、ビーバーとラッコの皮を敷きつめた長いローヤルカーペットの上を歩いたのです。それは、酋長の公式の催事の時に使われるのです。そしてその結婚式が彼に毛皮商という大きな商売をもたらしたのです。MackDonaldの母親は彼を生んで数ヵ月後に亡くなりました。MackDonaldは子供の頃から毛皮商の父とチヌーク族の祖父に連れられて陸や海を旅することに慣らされて育ったことは、彼の将来の生き方を考えるとラッキーだったのです。また父は、子孫の教育は、大事と考えMackDonaldをはやくから学校へ行かせました。Pacific Northwestの学校へ行っている時に歴史的な重大事をひきおこすキッカケがあったのです。1833年に和紙に描かれた絵がFt.VancouverにいるJohn Mcloughlinのところに届けられました。その絵は、日本海に台風で岩の上に座礁した船に乗っている3人の日本人の運命が記述されたものだった。MackDonaldは、入院中の一人をボランティアで看護した。その後連れ去られた日本人の友人達との思い出は、後々迄Northwestインディアンと母方の祖先は、日本から来たのではないかと信じるようになりました。そしてその見知らぬ国へ行く道をさぐる抑え切れない心が彼をせきたてたのです。
その頃の日本は、1638年から約200年間鎖国の時代でした。Ballスクールでの数ヵ月後彼派、Redriver Academyへ行きました。その学校は、ハドソンベイカンパニーの協力のもとに作られた、北米で最も遠い西海岸教育現場でした。その後父の計らいでEdward Ermatingerの銀行の見習い行員になりました。西海岸の若者にとってあまりないチャンスだったのです。Ermatingerは、MackDonaldを優雅な家に連れていきカナダの上流階級に連れ出しました。上品なマナーと優雅な若者に成人したMackDohaldは、なお子供の頃の野性的なそして旅人の生活への思いをも持ちつずけていたのです。人気者、ダンスの名手、有名人になった彼は、最上流階級のS七Thomasの家族にも受けいられました。しかし定められた日常の仕事に苛立ちを覚えこんな事を書いています。"
"文化的生活に対応するための訓練、上流生活を獲得するための環境や教育を受けたにもかかわらず私の身体に流れる抑え切れない自由を求める血、父親ゆずりの野性の血、そして彼以上にその野性の濃き血を持つインディアンの母親からうけた血は、この生活には、満足できなかった。私は、出来る限りその仕事をしたつもりだ。しかし銀行での業務、すべてがお金をとうしての生活は、私にはむかない。私は、汚れたことが嫌いである。金持ちになる野望は毛頭ないし、私は自分の進みたい道へ行く決心をした。世界へ出かけよう。何も持たずに冒険心だけを強く持って、心に深く誓ったことを大切にしてすすもう。"親友のMalcom Mcleadは、"彼がたった一人で、全くの援助無しで心に決めたこと、日本に漂流して、そこで英語を教えたことは、感激させられた。"と語っています。MackDonaldの夢の実現をする2、3、年前は、捕鯨とその他色々なことをしました。ハワイからの手紙、"私は、スパニッシュのいくつかの島々に行くつもりでまた船にのりました。しかし私は、計画を変更しました。キャプテンは、中国へ行き、そこから日本海へ行く予定です。私の夢を実現させる好機と思っています。彼は、私が予定を取り止めるように望んでいますが(鎖国時代の日本に近ずくことは、命の危険にさらされるからです。)私は、行きます。"
これらの簡単な言葉で彼の決心は、表現されていますが、MackDonaldは、彼の夢に着々と近ずいていました。その船は、一番近い島の浜辺から5.5マイル(約8キロ)のところまで進み、彼は、キャプテンに約束の要求をしたが、キャプテンは、難色を示した。MackDonaldは、小さな船を買いナビゲーターをつけ36日分の食料、文房具、数者の洋服、本、(バイブルを含めた)を乗せて整えました。彼の仲間達は、最後は、自殺の道をとるだろう友人を思いとどまらせようとロープを切ることを断わった。しかしMackDonaldの意思と感情は、激していた。彼は、その時のことを書いている。"私は、目をむいて自分でローブを切った。私は、仲間の本当の友情から身体の中を電気ショックを受けたような身震いが起きた。そしてその身震いが"マックに神の御加護あれ、そして最後のわかれだ"と言っているようだった。わかれの叫びのなかでMackDonaldは、はるか向こうにある水平線に向かって走りだした。"日本がみつかりますように"と祈りながら。小さな島国への道のりを記述しています。私は、船荷を陸揚げし船をひっくりかえした。日本では外人に大変残酷であるとの評判を聞いたし確信していたので。しかしそんな日本人でも、嵐にあって漂流している何もできなくなっている人間を助け(たとえ外人でも)彼等の砂浜に引き上げてくれるだろうと計算していました。私は、不敵にもそれをやってのける決意をしたのです。MackDonaldは、人間の持つ自然の力に頼って事を成し遂げたのです。彼は、地元のアイヌ人に発見され岸に助けあげられました。彼は、二人の監視人が来るまで服を与えられ、世話をされた。肉を食べない日本人の二人は、荷物から牛、豚肉をみつけふるえあがった。そして話しを聞き最後には、ながいフォークで味見をしてみた。彼は、禁酒家だったの酒を勧められても断わった。彼は、数週間かけToo-tomari,Soya and Fukuyamaを通って連れてこられた。長い旅がはじまった。これらの数週間人間もようを観察し、そして好奇心、発見があった。そして外の世界からの情報に飢えている日本人との交流があり、彼等とは秘密裏に情報を交換しあった。
その旅の始め頃は、身の自由をうばわれ隔離されるか、牢屋にいれられた。しかし非常に丁寧な扱いを受けた。一度は、長崎で役人達を客に招きその前でまた尋問された。役人達は、私に死も罪も与えなかった。役人達の計画は、奇妙にもMackDonaldが計画していたものと一致したのである。14人の若き貴族達の英語教師に仕立て上げたのです。日本滞在の最後の10ヵ月においては、彼等のうち7人は、若者育成の英語の教師になり、いく人かは、後に通訳になった。特にMORIYAMA YUENOSUKEは、優等生でありMackDonaldの最も好んだ日本人は、日常生活においても仲間になった。その年の冬の間彼の牢屋は、会議場となり、新しい役人や長崎の役人達を含めた訪問客が集まり色々な事を討議しはじめた。質問の集中は、アメリカ政府についてが好んで多くあった。それについてこう書いてある。"私の生徒達は、非常に能力が高く特に知的好奇心が旺盛であった。大奥帝国の憲法とアメリカ政府の根本を話した時に彼等は、すっかり理解してしまった。私は、大変胸をうたれた。そして選挙権をもった市民権と個人の自由を語った時も彼等は、それを完全に理解し賛同した。徳川幕府が絶頂を登りつめてしまった当時、ある学者やその他の知識人達の"世界に向けて開国する動き"が地方から始まっていた。彼は、日本の政治をよく知らなかった。彼のヴァンクーパーにおいて日本船座礁の絵をみた経験、彼等との約束、彼の乗っていた船が港を必要としていたこと、など世界にドアーを開けるように地方の人達に勇気ずけなくてはならなかった。外国から鯨を調達するための場としての日本の利用と取り引きを提案した。Herbert H Gowanが書いた本"日本の5人の外国人"において"MackDonaldは、日本の国と人々に影響を与えた最初のアメリカ人"と言っています。放免されたMackDonaldは、日本を去った。その後ペリー総督が来日した。ペリーは、すでに求められていた大使館設置をまた求めた。彼は、日本との関係を確実にする為に送られたのである。伝記作家のEvaEmory Dyeは、ペリーの日本における成功は、よく知られている。何が知られていないかは、MackDonaldの生徒と仲間達それにMORIYAMA YUENOSUKEが公正な通訳であったこと、ペリーが日本へもってきた親書の訳、日本側からの返答をも訳し、MORIYAMAはその後世界との交渉係として信頼を得た。MackDonaldの夢を実現する手助けをしたのである。
MckDonaldは、日本を出た語 インドで難破し生き残ったことを含めヨーロッパを旅した。オーストラリアでは、ボクシングに勝ち、カリブのgoldfieldでフェリーを走ったり、また、平和への訴えを確立した。
アメリカヘ帰った後FtColvilleの山小屋に住んだ。本の出版、沢山の訪問答でにぎわった。日本についての本の出版は、かなり熱望された。1923年William S LewisとNAOJIRO MURAKAMIによって編集された。両人のMack Donald像は、"厳しく荒々しいマックは、並外れた誇り高き人である反面非常に繊細な心の持ち主である。自然主義のインディアンの血を受けているために、彼はビジネスや社会生活において出会った自己満足な人々から時には、深く傷つけられた。スコットランドとインディアンの誇り高き心の持ち主の彼は、高級な名誉ある世界から身を引くことを決行した彼を、彼の内にある偉大なる冒険精神が彼を英雄にしたのである。